★このページの初出 2020年2月22日
★このページの最終更新日 2020年2月22日
8.細かな配慮
1.絞られたセリフ
「ベロ出しチョンマ」は短編ということもありますが、セリフもとても少ない作品です
「」でくくられたセリフは13しかありません。
その内、主人公長松が3、母ふじと妹ウメがそれぞれ2、名の無い役人が2、村人が4です。
セリフの長さも非常に簡潔で、一番長くて57文字しかありません。
セリフの数も長さも非常に絞っているのです。
セリフを絞るということで、一言一言のセリフの効果を高めると同時に、物語全体の緊張度をグッと引き上げます。
一般的に、セリフではない地の文章が多いほど、物語は冷静で緊迫感を高める効果があります。
逆にセリフが多いと、物語の雰囲気が軽くなって行きます。読みやすくもなります。
ただセリフが余りに多いと、会話で状況を説明してしまったりして、物語がいかにも作り物っぽく現実感がなくなったりします。
さらに
「わあ!」
などという地の文章で「驚いた」と書くだけで済むような言葉もわざわざセリフにしてしまい、物語全体が冗長になって行ったりもします。
作者の斎藤隆介はこのセリフの特長をよく分かっており、物語全体に緊迫感と現実感を持たせるために、セリフを非常に絞っていると管理人は考えています。
結果、セリフの一言一言が非常に効果的に読者に響いて来ます。
例えば役人が処刑を命令する
「はじめィーッ!」
という叫び声も、前後にセリフが無いため、声が読者の胸の奥まで響いて来ます。
また長松が刑場で父親藤五郎を見たときに発する
「父ちゃん!」
という一言にも、万感の思いがこもっていることが伝わって来るのです。
セリフは書こうと思えばいくらでも書くことが可能ですし、セリフで説明した方が作者としては楽な部分もあると思われます。
しかし、斎藤隆介はセリフの数を厳選し、長さも短くすることで、物語に緊張感と現実感を醸成した上で、物語全体を短く簡潔にして読みやすくしているのです。
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2.一言も発していない藤五郎
『ベロ出しチョンマ』の最重要登場人物の一人、長松の父親藤五郎ですが、驚くべきことにセリフが一言もありません。
藤五郎一家の他の3人にはセリフがあるのに、なぜ藤五郎にはセリフがないのでしょうか?
登場人物に話させた方が、読者に親近感が湧きますし、個性をつけたり当人の考え方を分かりやすく伝えることができたりと作者的にはメリットが多いのですが、敢えて藤五郎にはセリフを言わせませんでした。
なぜでしょう?
その謎を解くのにヒントとなるのは、藤五郎のセリフ以外の描写です。
実は藤五郎は年齢や性格や容姿などを、直接的には描写されていません。
藤五郎の人となりを推察できる描写は次の6点です。
1.家に毎晩村人がネングの相談に来ているので、村人に信頼されていたと推察できる。
また信頼に足るぐらい真面目に仕事もしていたと想像できる。
2.村人の思いを汲んで出府までしているので、村思いだったと推察できる。
3.妻ふじが捕まるときに覚悟を決めていると役人に告げているので、夫婦仲が非常に良かったと推察できる。
4.長松が捕まる時に、藤五郎が将軍に会えたと思っているので、子供とも強い信頼関係があったと推察できる。
5.刑場で長松と会った時に何も言わず優しく笑ったので、子供を非常に信頼し、言葉を発しなくても気持が伝わると考えていたと推察できる。
6.処刑場で村人を責めたりしていないので、責任を自分で負うことができる人物であると推察できる。
また死を前にして取り乱したところがないので、意志がしっかりした人物だと推察できる。
作者は藤五郎を直接描写はしませんでしたが、上記6点の描写により藤五郎の人となりを伝えています。
すなわち
「寡黙だが、村人からも家族からも信頼される、働き者の覚悟と実行力のある人格者」
こんなイメージです。
作者はセリフを言わせなくても、このイメージが読者に伝われば十分だと判断したのだと思います。
もっと言うと、セリフや直接描写で伝えるより、人となりを推察できる描写を重ねたほうが効果的だと判断したのではないかと思われます。
つまり、寡黙な人格者というイメージを伝えるためには、実際に一言も発しさせず、しかし村人が寄り集まったり、母ふじや長松から信頼関係を寄せられているという描写をする方が、より読者に藤五郎の人となりが伝わりやすい。
また、刑場でもセリフを話させず優しく笑うだけの方が、長松との信頼関係や、村人への思いが伝わりやすい、と考えたのではないでしょうか。
実際にセリフがなくても、藤五郎の誠実ぶりは読者に伝わって来るので、作者の狙いは成功していると思います。
作者は藤五郎にセリフを言わせないことで藤五郎の寡黙さと誠実さを表現した上で、文章量も減らして物語に緊張感を与えるのに成功しているのです。
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3.誰が言ったか分からない村人のセリフ
村人は4つのセリフを言っています。
引用してみます。出府の前に藤五郎の家で相談している場面です。
「もうこうなったらハァ、ちょうさんだ」
「いっそ打ちこわしでもやっか」
「ごうそするか」
「それよりだれかが江戸へじきそすれば--」
父ちゃんを夜おそく訪ねて来るおじさんたちは、じょうだんとも本気ともつかない調子でそんなことを言ってはタメいきをついた。 |
この4つのセリフからは、「3.村人の状況・気持」で書せて頂いた通り、村人の状況や保身が推察できます。
しかし、村人の誰が言ったのかは分かりません。
現実の会合では、よほど大きな会場でもない限り、誰が発言したかは特定できます。
藤五郎の家に集まった村人の数は多くても十数名だったと思われますので、発言者は容易に分かったはずです。
なぜ作者は村人の誰が発言したのかを特定しなかったのでしょうか? 考えてみたいと思います。
作者は容易に、セリフを言った人を特定させることはできたはずです。
例えば、「茂吉」という村人を登場させ
「村人の茂吉は『ごうそするか』」とまで言った。」
などと書けば、セリフの具体性が増しリアルになります。
しかし、セリフを言った人を特定すると、そのセリフは言った人個人の意見と読者に受け取られてしまいます。
上の例ですと、「ごうそする」と言うのは茂吉一人だけの意見だったかのように受け取られかねません。
またセリフを言った人を特定すると、展開によっては他のセリフも誰が言ったかを特定する必要が出てきたり、その個人の意見を押しのけて他の意見が通った理由を書かなくてはいけなくなったりと、状況などを説明する文章が必要になったりします。
作者は、なるべく文章を少なくしたいという意図を持っていたと管理人は考えています。
そこで村人のセリフは個人を特定せず、必要最低限な4つの言葉だけにしたのだと考えています。
個人を特定しなかったことで、この4つのセリフは村人達の誰もが思っていた事というように読者に想像させるようにもなっています。
4つのセリフは、村人達が誰とはなく喋った皆の思いなのだと読者に伝えることができているのです。
そして村人はどんな存在かでも書かせて頂いた通り、村人は読者そのものなのです。
4つのセリフは、いかにも誰でも言いそうな言葉です。
そんな言葉を村人に言わせることで、作者は読者を村人に共感させると共に、村人はあなた自身でもあるんですよとメッセージを送っているのです。
セリフの数が4つと登場人物の中で一番多いのも、
「誰でもが言いそうな多数意見」
という雰囲気を出すためなのかもしれません。
誰が言ったか特定されない村人の4つのセリフは、読者を村人に共感させると共に、村人は読者でもあると伝えるための、作者により綿密に工夫されて用意されたものなのです。
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4.無機質な役人のセリフ
役人のセリフは2つです。引用してみます。
1つ目は、母ふじと長松・ウメが捕まる場面。
家に押し入って来た役人のセリフです。
『「名主、木元藤五郎妻ふじ、そのほう、夫藤五郎が、おそれ多くも江戸将軍家へ直訴に及ぶため、出府せしこと存じおろう!」』
2つ目は、長松一家を処刑するための掛け声です。
『「はじめィーッ!」』
最初のセリフは、物語進行上重要な意味を持っています。
長松の父親の名前、名主であること、妻の名前の3つがこのセリフで明らかになっているのです。
これら3つの情報は地の文章でも書けたと思いますが、その分文章が多くなり物語の流れも滞るので、作者はセリフという形で違和感なく読者に情報を伝えているのです。
2つ目のセリフは、無くても物語は進行できますが、敢えてセリフとして入れることによって、刑場中に声が響くような臨場感を醸し出しています。
2つのセリフを読んで分かるのは、非常にドライで無機質だということです。
長松側のセリフには、語尾に「ハァ」とか「ねえド」とか「たっぺ」などの方言とも思える言葉を入れたりして、読者に親近感や安堵感を与えています。
ところが役人の言葉は、方言的な温かみがなく、冷たく無機質です。
役人は仕事で話しているので、事務的な口調になるのは当然なのですが、それにしても人間的な温かみの無いセリフです。
捕縛や処刑という仕事なので無駄口は無いでしょうが、それにしても人情味が無さ過ぎるセリフに思えます。
役人も同じ藩に済んでいるのですから、本当はなまっているはずです。方言を話しているはずなのです。
ところが作者は役人の言葉には敢えてなまりを入れず、事務的で高圧的なセリフを言わせたのです。
何故そうしたかというと、管理人は次の2点の狙いがあったからだと考えています。
(1)読者の気持ちを長松側に誘導するため
(2)人は人に冷たくするこができることを伝えるため
(1)読者の気持ちを長松側に誘導するため
役人に事務的で高圧的なセリフを言わせた理由の1つ目は、読者の気持を長松側に誘導するためだと考えられます。
作者は、長松や家族や村人に方言的なセリフを言わせることで親近感を持たせ、読者が長松側の視線で物語を読めるように誘導しています。
逆に役人の言葉を冷たく無機質なものにすることで、読者の気持ちを同調しにくくして、藩側がいかにも悪いような印象を与えているのです。
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(2)人は人に冷たくするこができることを伝えるため
役人に事務的で高圧的なセリフを言わせた理由の2つ目は、人は人に冷たくすることもできることを、暗に読者に伝えるためだと考えられます。
役人も藤五郎一家も村人達も、元を正せば同じ人同士です。
しかし生育環境が違うと、本来仲良くすべき同じ人同士なのに、処刑する側と処刑される側に分かれてしまう。
処刑される側がどんなに泣き喚こうが、処刑する側はまるで流れ作業のように命を絶つことができる。
それができるのが、人というものなのだ。
人は、そんな正邪善悪を持つ存在なのだ。
このように作者は、役人にまるでロボットのような無機質な言葉を言わせることで、人の持つ負の部分を読者に印象付けたかったのではないかと、管理人は考えています。
人が正邪善悪があるということを、作者は書こうと思えば明記できました。
例えば
「役人は人を人とも思わない荒々しさで長松達を処刑台に乗せた。長松は、同じ人なのにどうしてこんなひどいことができるのか、と思った」
などと書けば、人の負の部分が分かりやすくなります。
しかしこのような文章を入れると物語の流れを停滞させる上に、読者に同じ人間としてやるせない気持を抱かせてしまいます。
そこで作者は、役人のセリフを無機質にし、かつ最低限の数に制限することで、暗に人の負の部分をにおわす程度にしたのだと、管理人は考えています。
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【この章の要約】
『ベロ出しチョンマ』はセリフが13しかなく、いずれも簡潔。
セリフを少なくしたのは、物語に緊迫感と現実感を与えるため。
藤五郎にセリフが無いのは、寡黙さと誠実さを表現した上で、文章量を減らすため。
村人のセリフを誰が言ったのか分からなくしたのは、村人は読者だと伝えて共感を得るため。
役人のセリフが無機質なのは、読者の気持ちを長松側に誘導するためと、人が人に冷たくできることを伝えるため。
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