★このページの初出 2020年2月22日
★このページの最終更新日 2020年3月30日
7.作者が伝えたかった主題
4.作者が伝えたかった教訓や希望
1.花和村の現存理由は書かれていない
『ベロ出しチョンマ』では、第1章で花和村が現存していることを読者に伝えています。
人は昔も今も素晴らしい存在でも書かせて頂きましたが、花和村が現在まで存在し続けると書いたのは、作者の
「人は昔も今も素晴らしい存在」
というメッセージを、物語の構図でも伝える意図がありました。
では、花和村はどうやって現在まで現存できたのでしょうか?
原文を見てみます。
(前略)※直前に長松一家が処刑された場面(管理人注)
長松親子が殺された刑場のあとには、小さな社が建った。役人がいくらこわしても、いつかまた建っていた。
千葉の花和村の木本神社の縁日では、今でも「ベロ出しチョンマ」を売っている。 |
長松一家の処刑後の文章はたったこれだけです。
作者は、村人達がどうやって花和村を存続させたかを書いていないのです。
従ってどうやって存続させたかは、読者が想像するしかありません。
以下で想像してみたいと思います。
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2.藤五郎処刑後、花和村は窮地に陥った
まず村思いの名主藤五郎処刑後、花和村がどうなったかを想像してみたいと思います。
藤五郎の後の名主には、藩は当然藩にとって都合の良い村人を名主に指定したと思われます。
前の名主が藩に反逆したのですから、今度は絶対に藩に従順な名主にしないといけないからです。
もしからしたら、藩の役人が名主を代行したかもしれません。
藤五郎出府の原因である、ネングの増税もそのまま決行されたと考えられます。
名主が直訴しようとしても無駄だと、他の地区の農民にも知らしめないといけないからです。
また花和村は、二度と名主が出府などしないよう、藩の厳しい管理下に置かれたと想像できます。
藩としては、花和村に厳しい為政を引くことで、他の村が反抗するのを抑えようとしたと考えられるのです。
つまり藤五郎処刑後、花和村は極めて厳しい窮状に陥ったと考えられるのです。
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3.花和村は他にも様々な厄災に襲われた
花和村が現在まで存続しているということは、幕藩体制が終わった後も、生き残ったということです。
長い間村が存続しているということは、その間に藩による締め付けだけでなく、様々な厄災にも襲われたと想像できます。
再び地震や日照りにあったかもしれません。
疫病が流行ったことだってあったかもしれません。
深刻な飢饉などもあったかもしれません。
幕藩体制終了後は、徴兵や経済的困窮で、働き手が減ってしまうこともあったかもしれません。
恐らく花和村を崩壊に導く要因は沢山あったと思われます。
時には本当に八方ふさがりの絶望的な状況になったこともあったとも考えられるのです。
それでも村人達は現在まで花和村を存続させました。
村人達が建て続けた社も、現在毎月縁日が開かれるような立派な神社となることができたのです。
花和村は藩による厳しい為政が行われ、厄災などにも何度も襲われたと思われるのに、村人達はどうやって村を存続させたのでしょうか?
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4.村人達は諦めなかった
もし長松一家処刑後の藩による厳しい為政に耐えかねて、村人達が
「もう駄目だ」
と諦めて、村全体で逃散したり打ち壊しなどをしてしまったら、花和村は崩壊してしまったかもしれません。
名主が反抗した花和村は、藩にとっては煙たい存在なので、きっかけがあれば村全体を消しても良いと思っていたはずなのです。
また花和村に様々な厄災が襲って来た時に、
「自分達ではどうしようもない」
と諦めて誰かに頼ってしまったら、花和村は他の大きな町村などに吸収されてしまっていたかもしれません。
自力で立ち行かなくなった自治体を助けるには、大きな町村による吸収が一番効果的だからです。
しかし花和村は現在まで存続しました。
存続できたということは、村人達は諦めたり人に頼ったりせず、自分達の力で花和村を存続させたと言えるのです。
藩による厳しい為政に対しては、耐えに耐えたのです。
また厄災などで絶望的な状況でも諦めず、なんとか工夫して村を存続させたのです。
そうやって耐えに耐え、諦めずに工夫を積み重ねて、ついに村人達は花和村を現在まで生き永らえさせることに成功したのです。
なぜ村人達が耐えることや工夫できたかというと、長松一家の処刑を語り継ぎ、人に頼った自分達を自分達で変え、
「自分達で自分達の村を守り抜く」
と覚悟を決めたからです。
二度と長松一家の悲劇を繰り返さないために、子々孫々まで自分達の覚悟を伝えぬいたのです。
その覚悟の表れが
『役人がいくらこわしても、いつかまた建っていた。』
という藩への反抗行動で示されているのです。
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5.諦めずに工夫すればなんとかなるという教訓
作者は第1章と最終文章の2度、花和村が現存していることを書きました。
作者にとっては、花和村が今も存在しているというのは、非常に強調したいことだったのです。
なぜなら、花和村が現存しているということは、簡単なことではないからです。
しかし村人達は、名主一家が処刑されるという事件を語り継ぎ、社を建て続け人形を作り続け、諦めないで困難な状況を自分達の力で乗り切ったのです。
我慢に我慢を重ね、創意工夫を繰り返し、村を現在まで存続させたのです。
諦めなかったから、花和村は現在まで存在できたのです。
その村人達の継続的な行動の詳細を作者は直接書きませんでしたが、花和村が現在まで存在していることを冒頭と文末で印象的に書くことにより、
「どんなに辛い状況があっても、諦めずに工夫を続ければなんとかなる。」
という教訓を読者に伝えているのです。
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【この章の要約】
花和村がどうやって現在まで現存できたかは明記されていない。しかし、長松一家処刑後、藩による管理は強化されたと想像できる。
また花和村には様々な厄災が襲ったとも考えられる。
しかし村人達は、我慢に我慢を重ね、創意工夫して難局を乗り切って、花和村を生き永らえさせた。
作者は、作品の冒頭と最終文章で花和村が現存できていることを印象的に書くことで、諦めずに工夫を続ければなんとかなるという教訓を伝えている。
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