★このページの初出 2020年2月22日
★このページの最終更新日 2020年8月2日
7.作者が伝えたかった主題
3.作者の伝えたかった主題
1.人は生来の優しさを持つ存在
前章でご説明させて頂いた通り、作者は、長松のベロ出しも、藤五郎の誰も責めない優しさも、村人達が藤五郎一家を悼み続けた優しさも、生来持っているものと考えました。
そのため、優しさの原因を一切書きませんでした。
優しさは、教えられなくても生まれながらに持っているのだから、敢えて優しさの原因を書く必要がなかったからです。
作者は優しさの原因を明記しなかったことで、
「人はみんな生まれながらに優しさを持っている」
ということを当然だと読者に伝えたのです。
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2.長松の優しさは無駄?
長松は自分の死の直前、妹ウメの苦痛を和らげるためにベロを出しました。
舌を出してもウメは処刑され、自分も処刑されるのですから、このベロ出しには実利的な意味は乏しいと言えます。
全く見返りのない、「無駄」と言ってもよい行動とも言えます。
では作者はなぜ、物語のクライマックス場面で、主人公長松に無駄とも思える行動をさせたのでしょうか?
何を伝えたくて、長松にベロを出させたのでしょうか?
管理人は、
「人は自分が死に瀕してもなお、人に優しくできる」
ということを読者に伝えたかったのだと思います。
長松のベロ出しは実利的な意味は乏しいです。
しかしウメにとっては、死の苦痛を僅かでも和らげるという効果は持っています。
しかも長松のベロ出しは、自分には全く非がないのに処刑されるという、究極ともいえる過酷な状況で行われているのです。
つまり、長松のベロ出しという行動は、
「人はどんな過酷な状況でも、ごく僅かな効果しかないとしても、優しさを発揮できる」
ということを読者に伝えているのだと管理人は考えています。
人は生まれつき優しさを持っており、しかも自分が理不尽に死ぬ時にさえ、その優しさを発揮することができるのです。
これこそ、作者が長松のベロ出しで読者に伝えたかったことなのです。
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3.人は素晴らしい存在
「人は生まれながらに優しさを持っている」
そのことを作者は長松の優しさ、藤五郎の優しさ、村人の優しさの原因を明記しないことで読者に伝えました。
またその優しさは、
「自分が理不尽な死に瀕し、しかもごく僅かな効果しかないときでさえ発揮できる」
ことを、長松のベロ出しによって読者に伝えました。
では、
「生まれながらに優しさを持ち、しかもその優しさをどんな時でも発揮できる」
人とはどんな存在なのでしょうか?
それは、
「とても素晴らしい存在」
なのではないかと、管理人は考えます。
そしてこの
「人は素晴らしい存在」
ということこそ、作者が読者に伝えたかった主題だと、管理人は考えています。
別の言葉で書きますと、作者は
「人は素晴らしい存在」と
「人を肯定し、読者に希望を与えるため」
に『ベロ出しチョンマ』を著したのだと考えているのです。
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4.正邪善悪があっても人を肯定
『ベロ出しチョンマ』には、様々な人が登場します。
長松を処刑しようとする為政者や役人。
保身で藤五郎を出府させてしまう村人達。
人格者の藤五郎や妻ふじ。
人の思惑によって犠牲になる長松やウメ。
このようにこの短い物語には、様々な「人」が登場しているのです。
人が人を処刑するという残忍な行為や、村人の保身などのネガティブな行為も人の所業。
藤五郎の出府や長松のベロ出しや、村人の長松一家を悼むポジティブな行動も人の所業。
そういった正邪善悪を持つ様々な人を敢えて登場させて、作者は
「人は正邪善悪を持っている」
ことを、作者は読者に伝えています。
しかし正邪善悪を持ち、無慈悲な所業も行ってしまう人も、
「本来は生まれながらの優しさを持っている」
と長松のベロ出しを通じて、作者は訴えているのです。
正邪善悪はあるが、本来人は素晴らしい存在。
悪いこともしてしまうが、本当は生来の優しさを持つ素晴らしい存在なんだ!
これこそ作者が伝えたかった主題なのです。
『ベロ出しチョンマ』は、人を肯定する物語なのです。
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【この章の要約】
人は生来の優しさを持っている。しかもその優しさを、自分が死ぬときにさえ発揮できる。
そんな優しさを生まれながらに持つ人は、素晴らしい存在。
人を素晴らしい存在と肯定するのが、『ベロ出しチョンマ』の主題。
人は正邪善悪を持っているが、それでも素晴らしい存在。
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