★このページの初出 2020年2月22日
★このページの最終更新日 2020年2月22日
7.作者が伝えたかった主題
4.作者が伝えたかった教訓や希望
1.教訓や希望は書かなかった
『ベロ出しチョンマ』で作者が意図した教訓や希望は、書こうと思えば作中に書くことはできたはずです。
例えば
「村人たちは、藤五郎が処刑されしまったことから、誰かに頼むには責任が伴うということを学んだ」
「藤五郎に頼った結果、藤五郎一家は処刑され、自分達は一層の苦境に陥った。この結果から、村人たちは人に頼ってはダメだということを学んだ」
「花和村が現在まで生き残れたのは、五郎一家の死を語り継ぎながら、村人たちが諦めなかったからだ。どんな辛い状況に置かれても、諦めずに工夫すればなんとかなる」
「見返りもない優しさは人の心を打ち、ずっと語り継がれることもある。だから優しくしてほしい」
などと、明文化すれば教訓や希望はしっかり伝わったと思われます。
しかし作者は全く書きませんでした。
何故でしょうか? ここで考えてみたいと思います。
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2.主題が変わってしまう
作者が教訓や希望を書かなかった理由の1つ目は、主題が変わってしまうからだと管理人は考えています。
もし教訓や希望を直接書いてしまうと、読者は当然それが主題だと思ってしまいます。
『ベロ出しチョンマ』で作者が伝えたかった本当の主題
「人は素晴らしい存在」
が伝わらなくなってしまうのです。
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3.寓話に思われてしまう
作者が教訓や希望を書かなかった理由の2つ目は、教科書的な寓話に思われてしまうからだと管理人は考えています。
「寓話」というのは
『教訓または風刺を含めたたとえ話』(広辞苑第6版)
です。
別の言葉で言うと、教訓や風刺を伝えるための物語ということです。
もし『ベロ出しチョンマ』の中で教訓を書いてしまうと、読者はその教訓のために話ができている「寓話」と受け取ってしまう可能性がかなり高くなります。
例えば、
「どんな辛い状況に置かれても、諦めずに工夫すればなんとかなる。だから今が辛くても歯を食いしばって頑張るべき」
と明記してしまうと、読者は、最初に教訓やテーマがあり、それを伝えるために用意された物語と受け取ってしまうのです。
こういう寓話は1度目は読んでもらえるのですが、読者は
「言いたいことは分かった!」
と、2度目以降はなかなか読んでくれません。
さらに寓話的な物語は、教科書や教化的物語などに使われることも多く、読まされ感があって好きではない読者も多いのです。
読者は教科書や教化に使われる物語に対しては、例えば
「ああ、今が辛くても我慢すればいいのね!」
などと教訓だけを受け取り、物語自体を楽しもうとはしないのです。
作者は『ベロ出しチョンマ』を、そんなテーマが決まった寓話にしたくなかったと想像できます。
主題さえ明文化していないのに、教訓や希望を書いて読者に寓話と思われることなどは、全く想定していないことだろうと思われるのです。
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4.読者の想像力を奪い、物語が浅くなる
作者が教訓や希望を書かなかった理由の3つ目は、読者の想像力を奪い物語が浅く見えてしまうからです。
教訓や希望を明記すると、当然読者はその書かれた事が主題だと思い、それ以上物語を深く読もうとはしません。
作者が伝えたい事はちゃんと書いてあるのだから、それ以外の内容には注目しないのです。
教訓などは、書くと読者に直接伝えることができるのですが、その分読者が
「この作品は何を言わんとしているのだろう?」
という想像するのを阻んでしまうのです。
明文化は、読者の想像力を奪ってしまうのです。
さらに教訓などを書いてしまうと、読者は当然
「この作品は、教訓が書いているタイプの物語」
だと判断します。
分かりやすく単純な物語だと思ってしまうのです。
こう思われると、他に作者が主題や伝えたい事を文章の中に隠したとしても、読者は受け取ろうとしません。
物語が単純で浅いものになってしまうのです。
逆に読者に
「この作品は何か深いことを伝えようとしているのでは?」
と想像力を働かせさせるには、伝えたいことは明文化しない方が効果的なのです。
書いてないからこそ、読者は想像するしかないのです。
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5.文章が長くなり、リアル感が薄れる
作者が教訓や希望を書かなかった理由の4つ目は、文章が長くなり、リアル感が薄れるからです。
教訓を入れるということは、当然その分の文章を増やさないといけません。
また教訓を違和感なく登場人物に思わせたり話させたりするには、描写や会話を使って文章を増やし人物造詣もして行かなければなりません。
さらに教訓を入れる場合、例えば
「村人はようやく、人に頼みごとをする時は、よくよく相手の状況や、頼んだ結果がどうなるかを想像して頼まないといけないと判ったのだった」
などと、作者が客観的な「神の目線」でナレーターとして登場してしまう場合が出て来ます。
もし作者が客観的な神の目線で物語に介入してしまうと、物語のリアル感が薄れてしまいます。
神の目線で作者が介入すると、せっかくそれまで物語中で生き生きと躍動していた登場人物達と読者の間に距離ができてしまい、物語に対する親和感が薄れてしまうのです。
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【この章の要約】
作者は教訓や希望を書かなかった。
理由は、
1.主題が変わってしまうから
2.寓話に思われてしまうから
3.読者の想像力を奪い、物語が浅くなってしまうから
4.文章が長くなり、リアル感が薄れるから。
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7.作者が伝えたかった主題へ
4.作者が伝えたかった教訓や希望へ
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