★このページの初出 2020年2月22日
★このページの最終更新日 2020年2月22日
7.作者が伝えたかった主題
『ベロ出しチョンマ』は、長松のウメに対する献身の素晴らしさを伝えるための物語と読むこともできます。
では作者斎藤隆介は、献身の素晴らしさを主題にしてこの物語を書いたのでしょうか?
ここで考えてみたいと思います。
1.「献身」の意味
2.長松の行動は献身にあたるのか?
3.「献身」が主題だと違和感がある
4.作者の伝えたい主題は他にある
1.「献身」の意味
まずは「献身」という言葉の意味を再確認してみます。
【献身】(けんしん)…一身を捧げて尽くすこと。自己の利益を顧みないで力を尽くすこと。自己犠牲。(広辞苑第六版)
ではこの広辞苑にある「自己犠牲」とはどういう意味でしょう?
【自己犠牲】(じこぎせい)…自分自身を捨て、他人のために尽くすこと。(大修館 四字熟語辞典)
簡単に言うと献身は
「自分のことを考えないで、誰かのために尽くすこと」
ということでいいと思います。
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2.長松の行動は献身にあたるのか?
では『ベロ出しチョンマ』における長松の行動はこの献身に当たるのでしょうか?
長松は、妹ウメが槍で突かれる恐怖を和らげるため、ベロを出しました。
そしてその直後または同時に、長松自身も槍で突かれて死にました。
まさに自分の恐怖心を犠牲にしてウメのために尽くしたのですから、立派な献身と言っていいと思います。
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3.「献身」が主題だと違和感がある
長松の行動は献身と言えるのは確かですが、もし作者が「献身」を主題として書いたとしたら、違和感があります。
それはウメの死ぬ様子が描かれていないということです。
もし献身が主題であるなら、長松の自己犠牲によってウメがどうなったかは書かれるべきなのです。
例えば
「ウメは長松の顔を見て、いつものようにケタケタと笑った。その瞬間に槍が刺され、ウメは笑いながら死んだ。」
などと書けば、
「長松の献身によりウメの死の恐怖が緩和された」
という構図が完成し、献身という主題が分かりやすく読者に伝わったはずです。
しかし作者は、ウメの処刑の様子は一切書いていません。
せっかくの長松の献身の結果を書かなかったのです。
さらにもし献身が主題であったなら、藤五郎の献身にも、もっとスポットを当てても良いのではないかと考えられます。
藤五郎の出府は、「父親藤五郎はなぜ「出府」したのか?」でも解説させて頂いた通り、村人や藤五郎本人の様々な事情があって行われたものと想像できます。
純粋な献身とは言えないかもしれません。
しかし藤五郎は、自分自身も家族も犠牲にしてまで出府に出て、失敗して文句も言わず磔にされるのですから、立派な献身と言っていいのではないでしょうか。
しかし作者は出府の結果も明文化せず、藤五郎の処刑の様子も書きませんでした。
藤五郎の献身的行動も、長松の献身と同じで、作者にとってはクローズアップすべきものではなかったのです。
実は作者は同じ作品集『ベロ出しチョンマ』の中で、
『天の笛』
という「献身」が主題と思われる作品を書いています。
この作品では、
「鳥のひばりの命をかけた献身によって雪に覆われていた地上に春が来て他の鳥が死ななくて済んだ」
と、献身の結果を書いているのです。
もし献身が主題であれば、この『ベロ出しチョンマ』でも、当然献身の結果は書かれてしかるべきだと、管理人は考えています。
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4.作者の伝えたい主題は他にある
では何故、作者は献身の結果を明記しなかったのでしょうか?
管理人は、作者が本当に伝えたかった主題が他にあるからだと考えています。
長松の献身的行動を通して作者が読者に伝えたかったのは、もっと別の主題だったのではないかと考えているのです。
だからこそ、長松の献身の結果を書かず、藤五郎の献身的行動の結果も書かなかったのです。
結果を書いてしまうと、主題が
「献身の素晴らしさ」
と読者に伝わってしまうことを恐れたのです。
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【この章の要約】
献身とは、自分を捨てて他人に尽くすこと。
長松のベロ出しは献身と言える。
藤五郎の出府も献身と言える。
しかし作者は、長松のベロ出しの結果も、藤五郎の出府の結果も明記していない。
従って、献身は作者の伝えたい主題ではない。
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7.作者が伝えたかった主題へ
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