★このページの初出 2020年2月22日
★このページの最終更新日 2020年2月22日
4.将軍に会えたのかどうかを書かなかったのはなぜか?
恐らく様々な検討の結果、作者は藤五郎の出府が失敗したのか成功したのかを明記しませんでした。
その代わりに
『父ちゃんは江戸に行ったんだナ! 将軍様にあったんだ!』
という長松の希望的観測を書いています。
実は、この長松の思いは無くても物語は展開できます。
この文章は省いても物語進行上は問題ないのです。
しかも、『ベロ出しチョンマ』において作者斎藤隆介は不要な文章を削りに削って来ました。
物語展開上重要と思われる、藤五郎の出府の理由や、出府の結果さえ明文化しませんでした。
それなのに、長松一家が捕らえられる場面では、敢えて無くても展開できる長松の思いを書いています。
どうしてでしょうか?
一体なぜここで長松の思いを書いたのでしょうか?
以下で、作者の意図を探ってみたいと思います。
1.読者に希望を与えるため
まず、ここで長松の希望的観測を入れることにより、読者に
「直訴は成功し、ネングは減免されたかもしれない」
という、希望を与えていると管理人は考えています。
もしここで例えば
「父ちゃんは捕まったんだナ! 将軍様には会えなかったんだ!」
と書いたとしたらどうでしょう?
読者には絶望的なイメージが伝わり、出府の成否を明文化していないにも関わらず、あたかも
「出府が失敗したから処刑される」
という物語の流れが決定づけられてしまいます。
結果、希望のない暗い物語というイメージが一層強くなり、読後感も悪くなってしまいます。
そこで作者は敢えて長松の明るい希望的観測を書くことで、読者にも希望を与え、物語の暗さを軽減したのだと管理人は考えています。
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2.読者の心の負担を軽くするため
もしこの長松の希望的観測が無い場合や、長松の思いを例えば
「もう生きられないんだナ! 死ぬのは仕方ないんだ!」
などと無念の言葉を書いたら、読者はどう感じるでしょうか?
長松は不本意な気持で死んで行くのだと想像でき、何かとてもやるせない気持になって行くと思われます。
実際長松は両親から何も聞かされず死んで行くわけですから、希望的な言葉が無いと、読者は
「長松は悔しいんだろうなあ。さぞかし無念だろうなあ」
などと勝手に想像してしまいます。
救いのない暗い気持になり読後感も悪くなってしまいます。
そこで作者は、敢えて長松の明るい希望的観測を書くことにより、
「長松は無念で死んだのではなく、希望を持って死んだのだ」
と思わせることにしたのです。
作者は出府の結果は明記しませんでしたが、
「長松がネングが減免されることを信じて、希望を持った明るい気持で死んだのだ」
と読者に思わせ心の負担を軽くするために、敢えてこの希望的観測を書いたのだと管理人は考えています。
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3.父親との信頼関係を伝えるため
この文章を長松の希望的観測ではなく、父親藤五郎に対する恨みを書いたとしたらどうなるでしょうか?
例えば
「父ちゃんは失敗したんだナ! オラ達が死ぬのは父ちゃんのせいなんだ!」
と書いたあったとしたら、読者はどう感じるでしょうか。
このような父親に対する恨み的な言葉が書いてあったとしたら、作品『ベロ出しチョンマ』のイメージは大きく変わってしまいます。
長松は父親の身勝手な行動の被害者となり、ただでさえ暗い物語に親子の不和というさらに重苦しい要素まで加わってしまいます。
また子供である長松が父親を恨んでいるとなると、藤五郎が人格者であるという物語の根底も揺らいでしまいます。
さらに恨みを含んだネガティブな言葉は、読者にも良い印象を与えません。
藤五郎の身勝手さと、長松の未熟さばかりが目立ち、読んでいて気持が重くなってしまいます。
つまり長松の恨み言的な言葉を書くと、作品として良いことが何もないのです。
恨み言を書くぐらいなら、何も書かない方がまだ良いのです。
しかし作者は、敢えて長松の希望的観測を書きました。
作者はこの希望的観測を書くことで、長松と父親との信頼関係も読者に伝えていると管理人は考えています。
この
『父ちゃんは江戸に行ったんだナ! 将軍様にあったんだ!』
という言葉には、父ちゃんに対する不信感が感じられません。
むしろ
「自分が捕まるということは、父ちゃんはきちんと江戸に行き将軍様に会えたんだ! さすが父ちゃんだ」
という感嘆さえ感じられる言葉になっています。
この言葉は、長松が父ちゃんを恨むどころか、信頼し尊敬し、誇りにさえ思っているということを読者に伝えているのです。
実は『ベロ出しチョンマ』は、長松が父親の藤五郎をどう思っているのかは直接は書かれていません。
唯一この言葉だけで長松の父親への気持を読者に伝えているのです。
そこで、作者はこの言葉を書くことで、長松と父親が死を受け入れるほどの信頼関係で結ばれていることを伝えているのです。
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4.セリフにしなかった理由
この言葉は「」つきのセリフではなく、地の文に書かれているので、長松が勝手に思ったことになっています。
例えば、
「役人はまるで敵を見るような目で長松たちを睨んだ。その冷たい目つきを見て、長松は思わず叫んだ。
「『父ちゃんは江戸に行ったんだナ! 将軍様にあったんだ!』」
などとセリフにした方が読者の印象に残ると考えられるのですが、作者はそうしませんでした。
なぜでしょうか?
理由の1つは、セリフにしない方が読者の気持を物語に同調させやすいからだと考えられます。
セリフにしてしまうと、誰が言葉を言ったかを特定しなければなりません。
また特定しなくても、地の文章より強く誰が言ったのかが分かってしまいます。
セリフは言った人個人の意見として、読者に強い印象を残してしまうのです。
それを踏まえた上で、この文章をよく見ると、
「長松が」
などの思った主体が書かれていません。
『父ちゃんは』と書いてあるので長松が思ったと分かるのですが、もしかしたら3歳のウメが思った文章かもしれません(笑)
このように敢えて思った主体を特定せず地の文章にすることで、
「直訴が成功したんだな」
というセリフよりも読者の気持が同調しやすいようにしているのです。
自分も同じ考えだと、読者が思いやすいようにしているのです。
2つ目の、そして最大の理由が、セリフにしてしまうと出府の成否を明らかにしないといけないからです。
この文章をセリフにすると、聞いた役人は当然、出府が成功したかどうかを答えるでしょう。
成功したと答えるか、失敗したと答えるかは分かりませんが、長松達を捕まえるために来ているわけですから、長松が叫んだ以上、なんらかの答えを言う可能性が極めて高いのです。
文章テクニック的にはセリフを叫ばせるだけで、答えを出さないで次の場面に移ることも可能ですが、そうしてしまうと読者に
「なぜ役人は長松の言葉をスルーしたのか?」
という無用な疑念を残してしまいます。
作者としては、出府の結果を明文化せず、しかし直訴が成功したように読者に思わせたい訳ですから、長松がセリフとして言ってしまうと結果を明文化する必要性が高まるので、都合が良くないのです。
またセリフで言ってしまうと、セリフを言った状況を書いたり、その返事を書いたりと文章が増えてしまい、クライマックスである処刑の場面への進行も遅くなってしまいます。
そこで作者はこの文章を、長松が心で思ったことにして地の文章にしたのです。
長松が勝手に思っているだけなので、答えを明文化する必要はありません。
さらに、直訴が成功したという方向にも読者を誘導しやすくなるのです。
このように
『父ちゃんは江戸に行ったんだナ! 将軍様にあったんだ!』
をセリフにしなかったのは一挙両得な卓越した方法だと管理人は考えています。
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5.物語進行上極めて重要な一文
以上、1、2、3、4で見て来たように
『父ちゃんは江戸に行ったんだナ! 将軍様にあったんだ!』
という文章は、作者によって綿密に計算された上で明文化された、物語進行上極めて重要な一文だと管理人は考えています。
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【この章の要約】
『父ちゃんは江戸に行ったんだナ! 将軍様にあったんだ!』を作者が書いた理由。
1.読者に希望を与えるため。
2.読者の心の負担を軽減するため。
3.父親との確固たる信頼関係を伝えるため。
4.セリフにしなかったのは、読者の気持ちを同調させやすくするためと、役人に出府の結果を言わせないため。
この言葉は、作者の綿密な計算で明文化された、物語進行上非常に重要な文章。
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