★このページの初出 2020年2月22日
★このページの最終更新日 2020年3月27日
3.父親藤五郎は将軍に会えたのか?
長松の父親藤五郎は、藩に捕まって刑場に召し出されますが、では一体いつどこでどうやって捕まったのでしょうか?
例によって作者は、藤五郎の捕まった様子を一切描いていません。
ですので、ここで想像してみたいと思います。
1.考えられる捕まり方
(1)江戸市内で捕まえるのは困難
(2)直訴に来たときは捕まえやすい
(3)藩にとっては出府したと同時に捕まえるのがベスト
(1)江戸市内に紛れこまれると捕まえるのは困難
江戸に出府した時代を作者は書いていないので分かりませんが、ある程度幕藩体制が安定した時期だと想像できますので、江戸は世界的な大都市だったと考えられます。
享保六(1721)年には町民だけで50万人を超えていて、武家と公家を合わせると100万人ぐらいいたのではないかといわれています。現在に置き換えてもでも相当な大都市だったといえると思います。
そんな大都市に藤五郎が紛れてしまった場合、探し出すのは困難を極めたのではないでしょうか。
現在でもそうですが、一旦都市の中に入り込んでしまった人を探すのは難しいです。
江戸には全国から無宿人も集まっていたようですので、そんな中に紛れこまれるとお手上げだったのではないでしょうか。
また江戸市内に入ってしまうと、管轄が違うので藩の追手も自由に捜査活動はできなかったと思われます。
つまり藤五郎が捕まったとすれば、江戸市内に紛れる前か、江戸城などに直訴に現れた時というのが可能性としては高くなります。
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(2)江戸城に直訴に来たときは捕まえやすい
藤五郎が、登城・下城中の幕吏や江戸城にいる将軍に直接に直訴状を持参した場合、捕まりやすさはどうでしょうか?
これは藤五郎自ら出向くのですから、捕らえやすいです。
捕らえる幕府にとっても、直訴状を受け取った上で、身柄を確保し、出身の藩に引き渡せば済むので楽です。
ただ出府された藩にとっては、身柄を引き取りに行く時間や手間が必要です。
また幕府に対しても、出府を許したということで内政手腕が問われてしまいます。
さらに、身柄を引き渡された後もすぐに処断というわけには行きません。
幕府が直訴に来たと知っている以上、全く直訴人の話を聞かずに処断はできません。
どうやって江戸に入り込んだかなどの仔細を聞いて、今後出府させない方策を藩内で協議の結果処断という手続きを踏まないと、わざわざ引き渡した幕府側の体面を潰してしまうからです。
つまり藩にとっては、直訴状が渡される時に直訴人が捕まるのは、行政手腕が問われる上に手間も時間もかかり、さらに処断もすぐにできないという、好ましくない捕まり方ということになります。
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(3)藩にとってベストなのは、出府したと同時に捕まえること
では出府したと同時に捕まえるのはどうでしょうか?
実はこれが藩に取っては一番良い方法です。
無断出府されたのが分かっただけでも、幕府から監督不十分で責められるかもしれません。その上直訴状が幕府側に渡されると、下手をしたら藩政に口を出される可能性すらあります。
そうならないために一番良いのは、無断出府した瞬間に捕まえて、そのまま藩に連れ戻して見せしめながら処刑するという方法です。
これなら出府も幕府にばれないですし、直訴状が将軍家に渡ることもありません。
藩民への見せしめ効果も高いです。
従って、花和村の名主藤五郎がいなくなったという情報が伝わった瞬間から、藩は追手を放つ一方、藩境を固めて藤五郎を待ち伏せしたと想像できるのです。
そして藤五郎が江戸に入った瞬間に出府という罪が成立するので、すぐに捕縛したのだと考えられるのです。
途中もし他の藩を通過した場合は、通過する藩に敢えて藤五郎を捕縛しないよう連絡を取ったのだと想像できます。
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2.捕まった時期
(1)時期についてヒントになる原文
(2)村を出た時期と捕まった時期
藤五郎が捕まった時期についても、作者は一切書いていません。
そこでいつ捕まったかを、原文から想像してみたいと思います。
(1)時期についてヒントになる原文
原文でまず参考になるのは、霜焼けの妹ウメを長松が寝かしつけた後の
『長松は眠れない。(中略)大人たちはネングの相談をしているのだ。』
という文章です。ネングの相談をしているのが、寒い時期だということが分かります。
次に参考になるのは、
『今年も洪水や地震や日照りやがあって、米も麦もロクロクとれない』
という文章です。
それに
『何日もたったある晩、表の戸がはげしくドンドン叩かれた』
という文章も参考になりそうです。
また、刑場で長松が見た
『ヒゲぼうぼうの父ちゃん』
という文章も参考になりそうです。
さらに長松達の処刑された日がその後どうなったかにふれた、
『命日にあたる一日には縁日が立って』
という文章も参考になりそうです。
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(2)村を出た時期と捕まった時期
長松の父親藤五郎が出府した理由は、ネングが納められそうにないから将軍にネングを減免してもらうように領主に指示してもらうためです。
ですので、当然ネングを納める時期の前に村を出たはずです。
しかも将軍に直訴してその日にネングの減免が決まって領主に指示を出すなんてことは事務手続き上ありえませんから、直訴はネングを納める日からしばらく前に行えるように、ある程度日数に余裕を見て出発したと考えられます。
出府した時期ですが、原文で
『大人たちはネングの相談をしている』
と書いてあるのが、長松が妹の霜焼けを取る時期なので、相談をしているのは冬ではないかと想像できます。
冬にネングとして納めるのは米だと思われますので、秋の米の収穫が終わってネングを納めるまでの間に、村人達が対策を相談しているのではないかと想像できます。
また原文に
『今年も洪水や地震や日照りやがあって、米も麦もロクロクとれない』
と書いてあります。
地震は突発的なものなので季節を特定できませんが、洪水は秋の台風、日照りは夏の干ばつを想起させます。
つまり地震があった上に、夏に日照りがあり、さらに秋に台風が来て洪水が起こった。その結果周辺の村ではネングが出せなくなり、花和村にネングが加増された。
花和村も苦しいのにネングが加増されることになり、村人達は弱り果てて名主の籐五郎と一緒に冬に抗議行動を考えている、という状況だったのではないかと管理人は考えています。
では冬のいつ頃でしょうか?
作者は時期も書いていませんので、考えてみます。
まず思い出されるのは作品の冒頭で
『千葉の花和村に「ベロ出しチョンマ」というオモチャがある』
と、現在も千葉県にある村と特定していることです。
現在の千葉に行かれたことのある方は分かってくださると思うのですが、千葉県の東京や川崎の近郊は都市化が進み、とても村がある雰囲気ではありません。
現在、村があるとすると房総半島になります。旧上総国か安房国です。
房総半島も広いので、作者がどの辺りをイメージしていたのかは分かりませんが、漁業に関する記述が全くないので、花和村は内陸部にあったとも考えることができます(作者が着想した事件で出府した人物は佐倉市出身)。
仮に内陸の現在の大多喜町辺りと考えて見ます。
大多喜町から、江戸までは直線距離で65kmぐらい。ただ実際は道には曲折や山道の凹凸が結構あるので、大雑把ですが直線距離の2倍ぐらいみておきましょう。
そうすると大体130kmです。
時速5kmで、頑張って1日12時間歩いたとして1日60km。
先ほどの130kmを60kmで割ると、約2.17日となります。3日目には着きます。
途中道を間違えたり、天候によって進めない日があったり、人目につかないように隠れて歩かないといけなかったりするかもしれませんが、どんなに遅くても5日あれば江戸に着いたと思われます。
次に注目なのは『何日もたったある晩』という文章と、藤五郎が『ヒゲぼうぼう』になっていたという文章です。
「何十日もたった」とか「何ヶ月もたった」と書かず『何日もたった』と書いたということは、藤五郎が出て行って1ヶ月もたってないうちに長松達は捕まったと考えられます。
そもそも江戸まで片道で何十日もかかるようでは、その間にネングを納める日が来てしまう可能性があります。
江戸までに遠ければ遠いほど、江戸に着く時期が遅くなり、直訴という方法が効果的でなくなってしまうのです。
直訴という方法を選んだのは、5日間程度で江戸まで行けそうだからこそなのです。従って捕まるのにも、そんなに日にちがかかったとは考えにくいのです。
次に『ヒゲぼうぼう』ですが、どの程度がヒゲぼうぼうというのかが分かりません。
ヒゲが数十センチ伸びてる状態なのか、短いヒゲで顎が覆われている状態をいうのかなどによって、期間が違って来ます。
さらに、個人によってヒゲが濃い人薄い人がいて、伸びる早さも量も違います。
従ってヒゲぼうぼうだからといって、どれぐらいの期間という特定は難しいですが、最低でも2週間は経っていたのではないでしょうか?
『命日にあたる一日』は重要なヒントです。
一般に冬と言われる時期で「一日」というと、12月1日、1月1日、2月1日と思われます。
このうち1月1日は正月ですから、通常処刑は行わないのではないでしょうか。
そうなると12月1日か、2月1日ということになります。
米の収穫は10月頃ですから、2月1日では年をまたぐ上に、収穫から3ヶ月以上経ってしまうので、米の鮮度が悪くなってしまいます。
さらに処刑はネングを納める前に行って
「ネング徴収に反抗する者はこうなるぞ」
と藩の連中に見せしめるのが最も効果的です。
ですので処刑は藤五郎が捕まってなるべく早く、しかもネングを納める前に行ったと考えられます。
以上を勘案すると、処刑されたのは、12月1日ではないかと管理人は考えています。
当時は旧暦ですので、12月1日は今の1月1日にあたります。
時系列で表にしてみます。
月(旧暦) |
出来事 |
8月まで |
地震が起こった? |
7〜8月 |
日照りが起こった(夏の干ばつ) |
8月〜9月 |
台風による洪水が起こった |
9月〜10月上旬 |
米収穫。ネングを増納すると暮らせないのが分かる |
10月中旬〜下旬 |
村人が藤五郎の家に集まり、ネング増納対策を討議 |
11月初頭 |
藤五郎が村を出る |
11月初旬 |
籐五郎捕まる |
11月中旬 |
長松、母ふじ、妹ウメ捕まる |
12月1日 |
長松一家処刑 |
12月初旬頃 |
ネング納付 |
旧暦の10月中旬〜下旬は、今の11月中旬〜下旬にあたるので、もう冬といってもいい程寒かったと思われます。
また温暖化した現在と違って気温が低く、水も冷たかったと思われます。さらにいうと昔の日本家屋は、非常に寒さが厳しかったのです。
11月とはいえ、ウメが霜焼けになっても不思議はありません。
ネング納付までのなるべく早い時期に直訴しなければならないので、藤五郎は抗議方法が直訴と決まったら、すみやかに村を出たと思われます。
一方藩側も、ネング納入までのなるべく早い時期に反抗者を処刑した方が見せしめ効果が高いので、藤五郎を捕まえた後は速やかに処刑を行ったと考えられます。
以上の理由から、藤五郎が村を出たのは11月初頭、捕まったのは11月初旬。長松達は11月中旬に捕まり、12月1日に一家全員処刑されたのではないかと管理人は考えています。
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3.どのようにして捕まったか
(1)当時の農村の状況
(2)村に来ても出府したかの判断は難しい
(3)出府と同時に捕まった
(4)リークがあったのでは?
藤五郎が捕まった時期は想像できました。
ではどのようにして藤五郎は捕まったのでしょうか?
やはり作者はどのように捕まったかも書いてないので、考えてみたいと思います。
その前に、話を進めやすくするために、まず当時の農村の状況をごく簡単に説明させて頂きます。
(1)当時の農村の状況
当時の農村は、農村そのものが1つの行政単位でした。
領主は村単位に税金や賦役を課しました。これを村請制といいます。
村の運営は、名主(庄屋)、組頭、百姓代などの村役人が担っていました。
『ベロ出しチョンマ』の長松の父親藤五郎は名主ですから、村運営のトップです。
村役人の下には、田畑を所有する本百姓や小作人の水呑百姓などがいました。
そして百姓達は、近隣の五戸を一つとする五人組などの制度により、連帯責任を負わされていました。
五人組などの制度は、相互扶助よりも相互監視という性格が強かったようです。
(以上の農村の説明は『図解 江戸時代』(知的生き方文庫)より要約)
つまり農民達は互いに連帯責任を負わされた上に監視し合うという、非常に濃い関係にあったのです。
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(2)藩の人や他の村人が村に来ても、藤五郎が出府したと判断するのは難しい
藤五郎と村人は何度も話し合っていましたから、藤五郎が村を出た後、もし藩側の人や他の人が村に来て、名主の不在を尋ねた際の対策も十分練っていたと考えられます。
例えば
「この前の朝に突然いなくなって帰って来ねェ。どこへ行ったか分からなくて、オラ達も心配してるダ」
など、村人達に迷惑がかからない上に日数も稼げる巧みな言い訳を用意したのではないでしょうか。
こう言われると、藩側の人も他村の人も村人の言うことを信じざるをえません。
どこへ行ったかも分からないので、探しようもありません。
出府したかどうかを判断することもできません。
花和村の村人としては、せっかく名主を送り出したのですから、出府したというのを知られては元も子もありません。ですので、必死でかばったと思います。
つまり、仮に藩側の人や他の村の人が来ても、すぐには藤五郎の出府はばれなかったと考えられます。
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(3)藤五郎は出府と同時に捕まったのではないか?
上記表のように藤五郎は捕まったと管理人は推察していますが、村を出てから捕まって処刑されるまでが、非常に早いと感じています。
例えば江戸城の幕僚や出勤中の幕吏に直訴状を渡したとしたら、こうスムーズには行かないのではないでしょうか。
もし直訴状が幕府側に渡った場合、まず幕府が藤五郎を捕縛して取調べや事務処理を行って、藩に連絡するでしょう。
幕府から連絡が入ると藩は引取人を江戸に派遣し、引取りの事務処理を行い、藩に連れて帰ります。
または江戸に詰めていた藩の人が引き取ったかもしれませんが、いずれにしても藩に連れて帰らなければなりません。
藩に引き取っても、幕府から引き渡された以上、幕府の面子を潰さないためにも、藤五郎の言い分や、どういった経路で江戸へ出府できたかなどを確認するなど、取調べを行い最終的に処分を決定するという作業を行うと考えられます。
処分決定後、ようやく長松達一家を捕縛し、処刑です。
つまり幕府側に直訴状が渡った場合、藤五郎の処分には結構な時間がかかってしまうと考えられます。
しかし実際は、上記表の通り藤五郎が村を出て一ヶ月程度で処刑が行われたのではないかと、管理人は考えています。
原文の
『何日もたった』
という表現も、何十日や何ヶ月も経っていないことを暗示していると管理人は考えています。
では、これだけスムーズに捕まえて処刑できるたのは何故でしょうか?
管理人は、藤五郎が江戸市内に入る前に、出府したと同時に藩が捕まえたからだと考えています。
幕府側に気づかれることなく藩の内部で処理できれば、藤五郎の搬送や処分決定、家族の捕縛、そして処刑までを非常に迅速に行うことができるからです。
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(4)リークがあったのでは?
藤五郎が出府したと同時に捕まったとしたら、どうすればそういった捕縛が可能となるでしょうか?
上記の通り仮に花和村に藩側の人や他の村の人が行ったとしても、花和村の村人は藤五郎が江戸に行ったとは言わないと思います。
ではなぜ藤五郎が出府のために村を出たのが藩側にばれたのでしょうか?
これは管理人の想像ですが、村人のリークがあったのではないかと思っています。
村人からのリークであれば、藩側の待ち伏せも極めてしやすく、出府と同時に捕縛することも十分可能です。
出府の詳細情報があるので、藩側は藤五郎に気づかれず先回りすることができ、捕縛後の処理も、あらかじめ準備しておくことができます。
藩側としては、出府者を迅速に捕縛して処刑できれば、藩民への見せしめにもなりますし、幕府に知られることもありません。
そうするために藤五郎を泳がせといて、周到に準備を整えて待ち伏せしたのではないかと管理人は考えています。
勿論これは管理人の勝手な想像であって、実際は作者は全く別の捕まり方を想定していたのかもしれません。
しかしあり得ないという訳でもないと管理人は考えています。
花和村の規模は書かれていませんが、ネングの割り当て分をしっかり納めていたことを考えると、最低でも数十人はいたと考えられます。
村人の人数が少ないと一人当たりの負担が大きくなり、農民が病気などをして農作業できなくなった場合、フォローできなくなりネングが納められなくなります。
花和村がなんとかネングを納め続けられたいたのは、ある程度の人口があり、互いにフォローすることができたからだと管理人は考えています。
では数十人の村人がいたとして、全員が全員、藤五郎を支持しているということがありえるのでしょうか?
いくら藤五郎が人格者だとしても、全員から信頼されるなんていうことがあるのでしょうか?
藤五郎が世襲で名主になったのか、本百姓の中から選ばれて名主になったのかは分かりませんが、他に名主になりたい村人や、真面目で裏表ない藤五郎の村運営に不満を持っている村人はいなかったのでしょうか?
洪水や地震や日照りで自分達が苦しんでいるのに、藩の言いなりになり、率先して反抗しようとしない五郎に苛立っている村人はいなかったのでしょうか?
さらに相互監視が強い農民の中には、予め藩とつながってスパイ的な活動をしていた村人もいたのではないでしょうか? 名主を監視していた村人もいたのではないでしょうか?
藩にとっては、率先して花和村の村民を締め付けてネングを絞り上げようとしない藤五郎は、望ましい名主ではなかったと想像できます。
そのため予め村民を籠絡しスパイに仕立て上げ、わざと藤五郎を出府するように仕向けたとも考えられないでしょうか?
例えば次に名主になりたい村人を藩側が
「藤五郎を亡き者にしたら、お前を名主にしてやる」
などと巧みに操り、工作活動を行わさせて、藤五郎が出府せざるをえないように他の村人達を扇動させたのではないでしょうか?
藤五郎を出府するように煽って、実際に出府したらすぐに藩側にリークしたのではないかと考えられるのです。
そして、江戸に入ったと同時に捕まえた上で、迅速に一家全員を処刑することで、出府が不可能なことを藩全体にアピールし、反逆に対する見せしめにしたのだと、管理人は考えているのです。
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【この章の要約】
藤五郎は11月初頭に出府し、藩を出た直後に待ち伏せされて捕まった。
村人からのリークがあったのかもしれない。
11月中旬には長松達も捕まり、見せしめのために12月1日に一家全員処刑された。
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3.父親藤五郎は将軍に会えたのか?へ
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