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深読み 『ベロ出しチョンマ』!


★このページの初出 2020年2月22日
★このページの最終更新日 2020年2月22日

6.長松はなぜ父親を責めなかったのか?

3.書かれていないからこそ伝わる関係
<ポイント>
1.書かれていないからこそ伝えられること
2.長松の気持を凝縮した言葉
3.藤五郎の笑顔
この章の要約


前述の通り、作者は敢えて長松と父親の関係を明記しませんでした。

しかし管理人は、明記しなかったからこそ二人の関係が読者に
強く伝わっていると、考えています。

明記しなくても、二人の強い信頼関係を読者に伝えることが
できているのです。

そのように管理人が考える理由を、書かせて頂きたいと思います。



1.書かれていないからこそ伝えられること

(1)関係が明文化されていないので、読者は想像するしかない
(2)最も強い信頼関係は、言葉にしなくてよい関係
(3)良いイメージの伏線で明文化しないで済んでいる


(1)関係が明文化されていないので、読者は想像するしかない

長松と父親藤五郎の関係は、原文中には明記されていません。

しかし長松は勝手に
『父ちゃんは江戸に行ったんだナ! 将軍さまにあったんだ!』
ポジティブな想像をして、父ちゃんを誇りにすら思いながら死を受け入れています。

これは何を意味しているのでしょうか?
長松にポジティブな想像をさせることで、作者は何を伝えたかったのでしょうか?

管理人は、
「作者は
言葉にしなくても死を受け入れられるぐらい、長松は父親を尊敬し信頼していた」
ということを読者に伝えたかったのではないかと考えています。

作者は長松と父親の関係を明記しようと思えば、
いかようにも明記できたはずです。

例えば
「長松は村思いの父親を尊敬し信頼していた」
という意味の文章を1文入れるだけで、読者に二人の関係を明らかにすることができました。

実は、関係を明記する方が読者にも
分かりやすく、著者も楽なのです。

しかし作者は、二人の関係を書きませんでした。

その代わり、
ポジティブに長松に死を受け入れさせたのです。

そうすることで、読者は、
「長松と父親の間は、何も書かれなくても死を受け入れるぐらい、
強固な尊敬と信頼関係で結ばれていたのだ」
勝手に想像せざるをえません。

関係が明文化されていないのですから、そう
想像するしかないのです。

これこそ、作者が狙った
効果だと管理人は考えています。

もう一度書きますと、長松と父親の関係を書かないことで、逆に読者に
「二人の関係は
言葉がなくても死を受けいれらるぐらい強固なのだ」
想像させているのです。

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(2)最も強い信頼関係は、言葉にしなくてよい関係

ここで少し話を変えます。

最も強い「信頼関係」とはどういう関係でしょうか?

様々な意見はあると思いますが、管理人は
言葉にしなくても揺るがない関係
だと考えています。

「あの人は○○だから信頼できる」
という
原因(因果律)がある信頼関係より、
「何も言わなくても信頼できる」
という
原因のない信頼関係の方が、より強固だと考えているのです。

作者の斎藤隆介も同じように、言葉にしなくても揺るがない信頼関係の方が、
原因のある関係より強固だと考えたのではないでしょうか。

そこで、敢えて長松と藤五郎の関係を明文化せず、読者に二人の関係を想像させることで、
言葉も要らない非常に強い信頼関係で結ばれていたと伝えることにしたのではないかと考えられるのです。

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(3)良いイメージの伏線で明文化しないで済んでいる

では、読者はなぜ二人が強固な信頼関係で結ばれていたと想像してしまうのでしょうか?

それは、作者は読者に気づかれないように巧みに
伏線を張っているからです。

伏線の
1つ目は、主人公長松が
「家族思いな真面目な優しい良い子」
ということを、
長松の行動を通して伝えていることです。

親が忙しいのを分かった上で、妹ウメの霜焼けを取ってやったり、取る時の痛みを和らげるためにひょうきんな顔をしてみたり、と長松の行動は冒頭から
優しさと思いやりに満ちています。

そのおかげで、読者は知らない間に
長松はいい子だと思わされています。

伏線の
2つ目は、父親藤五郎も、村人の相談に真摯に乗る村思いの人格者と描かれていることです。

実は悪いのは誰かでも書かせて頂いた通り、藤五郎は出府という掟を破る
を犯しています。

しかし、作者は藤五郎の出府の理由を書かないことにより、藤五郎の人格者のイメージが下がらないように
工夫しています。

藤五郎は
村のために身を捨てて行動する人格者、というイメージが読者に伝わるようにしているのです。

このように長松と藤五郎の行動で「長松はいい子」「藤五郎は人格者」という
イメージを作者が確立させているからこそ、二人の関係を明文化しなくても、二人は強く信頼し合っていたと読者に伝わっているのです。


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2.長松の気持を凝縮した言葉

(1)読者に希望と安堵感を持たせている
(2)物語の暗さを軽減している
(3)出府が成功したように読者に思わせている
(4)長松と父親の強固な信頼感を表している

作者は長松と父親の関係は明記しませんでしたが、長松に二人の関係を暗示する重要な言葉一言を思わせています

それは長松達が役人に捕まる時に長松が思った、次の言葉です。

『父ちゃんは江戸に行ったんだナ! 将軍さまにあったんだ!』

この言葉は長松の
希望的観測ですが、『ベロ出しチョンマ』という物語の中ではとても大事な言葉ですので、この言葉の持つ役割をここで解説してみます。

なおこの言葉については
なぜ『父ちゃんは江戸に行ったんだナ! 将軍さまにあったんだ!』を書いたか?
でも詳しく解説させて頂きましたが、極めて重要な一言なのでここで
もう一度別の言葉で解説させて頂きます。


(1)読者に希望と安堵感を持たせている

まず、この一言を長松が思うことで、長松は恨みや恐怖に満ちて死んで行ったのではないと、作者は読者に伝えています。

もしこの言葉が無いと、読者は長松がどういう
思いで処刑されたのかが分かりません。

この言葉が無いと読者は
「親を恨んでいるんだろう」
「恐怖で怯えているだろう」
「怒りに満ちているだろう」
などと、
勝手に想像するしかなくなってしまいます。

しかし、この一言を書くことにより、
長松は村が救われたと信じ、父親を誇りに思って死んだのだ
と読者は希望と安堵感が得られるのです。


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(2)物語の暗さを軽減している

もしこの言葉を書かずに、
「長松の恨み言や恐怖の叫び」
を書いたとしたら、物語は一層
陰惨な様相を呈します。

父親が捕まれば処刑されるのが分かっていて敢えて出府に行き、やはり捕まって、父親を恨んで泣き叫ぶ子供達と一緒に
(はりつけ)にされる物語というのは、読んでて相当陰鬱な気持になってしまいます。

そんな状態で長松が妹ウメに舌を出したとしても、
「長松はウメのために、自分が辛いのに
無理やり笑わせたのだ」
という
印象が読者に伝わってしまい、やるせなさと空しさが醸成されてしまいます。

そんな暗い物語は
読後感も悪くなり、読者に受けません。

そこで作者は長松に明るい言葉を思わさせ、物語の
暗さを軽減したのです。


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(3)出府が成功したように読者に思わせている

作者はいくつかの理由から、出府の結果も明記しませんでした

実際に出府後どうなったかを考えると、地方の一名主である藤五郎が将軍に会えるはずもなく、
出府は失敗した可能性が高いと考えられます。

しかし
「出府は失敗した」
とはっきり明記すると、
物語全体に救いがなくなり、作者の伝えたかった主題がうまく伝わらない可能性も出てきます。

逆に
「出府は成功した」
と明記すると、今度は物語が
作り物っぽくなってしまい、作者の伝えたい主題が全く別のものに取られる可能性が出て来てしまいます。

そこで作者は、長松に
「出府は成功したに違いない」
という内容の希望的観測を発せさせることにより、あたかも出府が成功したような
印象を読者に与えているのです。

この長松の希望的観測により読者は
「藤五郎の死も、長松の死も無駄ではなく、村のためになったのだ」
と想像できるよう、作者によって
導かれているのです。


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(4)長松と父親の強固な信頼感を表している

作者は長松と父親の関係を明文化していません

その代わり、長松が妹ウメの世話をしっかりする様子を描き、父親藤五郎が村人の相談に真摯に乗っている姿を描くことで、
二人は良い親子だと読者に伝えています。

しかしそのまま何も書かないで、処刑の場面に行ってしまうと、読者は
長松が本音ではどんな気持で処刑されるのかが、全く分からなくなってしまいます

それまでの文脈から、
「長松は恐らく父親を責めてはいないだろう。また死を受け入れているだろう」
想像することはできるのですが、長松の気持が全く書いてないだけに、一抹の不安が残ります。

しかしここで長松の思いが明文化されたことにより、読者は
「長松は父親の行動を誇りに思い、出府が成功してネングが減免されたと信じ、希望に満ちて死を受け入れたのだ」
確信を持つことができるのです。

作者は、長松と父親の関係は敢えて明文化しませんでした。
しかしこの長松の思いを書くことにより、長松は死を受け入れるぐらい父親を強固に信頼し尊敬していると、
読者に伝えているのです。


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3.藤五郎の笑顔

(1)藤五郎は処刑直前長松に優しく笑った
(2)ただ笑うことで思いが深く伝わる
(3)笑顔で村人をも許した

(1)藤五郎は処刑直前長松に優しく笑った

長松の思いと共に、長松と父親の関係を表す重要な描写が処刑の場面に書かれています。

原文を引用してみます。


 長松は刑場(けいじょう)で初めて父ちゃんを見た。父ちゃんは長松たちと同じように白い着物を着せられて、もう高いハリツケ柱にしばられていた。
「父ちゃん!」
 と
長松(ちょうまつ)が叫ぶと、ヒゲぼうぼうの父ちゃんが高い所でニコッと(わら)った。とってもやさしい目だった。


これはよく考えると不思議な場面です。

もし自分が長松の立場だったら、
例えば
「父ちゃん! なんで相談してくれなかったんだっペ? オラまだ死にたくネェ!」
などのような一言を言いたくなるのではないでしょうか?

自分には
落ち度がないのに処刑されるのですから、父親を一言ぐらい責めたくなるのが自然だと思うのです。

また自分が藤五郎の立場だったら、
例えば
「長松すまねェ! 村のために名主としてせねばならんことだったんだ! 分かってくれ! 
許してくれ!
ぐらいは言いたくなります。

自分のせいで子供まで道連れにするのですから、せめて
詫びの言葉ぐらい言いたくなるのが自然だと思うのです。

ところが長松は
『父ちゃん!』
と叫ぶだけですし、藤五郎に至っては
何も言わずニコッと笑うだけなのです。

子供の人権という概念がある現在の私達から見ると、
「そんなんでいいんかい!?」
と言いたくなるような情景です。
「互いにもっと言うことがあるんじゃないの?」
と、つっこみを入れたくなってしまうような場面なのです。

作者はなぜ長松には一言しか叫ばせず、藤五郎は笑顔を見せるだけにしたのでしょうか?

以下で考えてみたいと思います。

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(2)ただ笑うことで思いが深く伝わる

この場面、作者は
書こうと思えば様々な言葉を書けたはずです。

また言葉を書かなくても、
例えば
「長松は『父ちゃん!』と叫んだ。藤五郎はニコッと優しく笑った。その笑顔を見て、長松は父ちゃんの気持が分かった。村のために仕方がないことだったんだ! 父ちゃんはオラ達のことも十分考えてくれたんだ!」
などと
思いを書けば、読者には長松と藤五郎の気持は伝わりやすかったと思われます。

しかし作者は何も書きませんでした。
何故でしょう?

管理人はここでも、作者が
何も書かない方が二人の気持が伝わると考えたのだと思います。

もし長松の叫びに藤五郎が答えると、その分の文章が必要になります。

その文章は余程うまく書かないと、
陳腐な、印象の薄い文章になってしまいます。

処刑寸前に親子が再開するという、クライマックスともいえる見せ場ですので、相当うまい言葉を入れないと、どこかで読んだような
陳腐な表現になってしまうのです。

例えば、今管理人が思い浮かんだ言葉を藤五郎と長松に言わせてみます。

『藤五郎は長松の顔を見て叫んだ。
「長松、ウメすまねえ! 分かってくれ、こうするしかねかったんダ!』
長松は首を振った。
「父ちゃんの気持ち分かってるッペ! これでイイんダ!」』

これが
演劇であれば、このようなありがちな言葉を言わした方が観劇者の心を掴みます。

演劇は瞬間の芸術ですので、発せられた言葉は声調が強く、
分かりやすい方が心に残るのです。

しかし文章となると何度も読み返しもできるので、ありがちな表現を入れるとその分底が浅くなってしまうのです。

つまり管理人の僕が書いた先ほどの文章では、
「藤五郎が長松とウメに謝っている」
ことと
「長松が父ちゃんの行為を許している」
ことは伝わるのですが、それ
以上の思いを読者に伝えるのは難しいのです。

ほとんどの読者は書かれていることは
そのまま受け取るので、書かれている以上の思いを伝えるのは難しいのです。

しかももう藤五郎は磔台(はりつけだい)に縛られているのですから、説明調の長い文章は書けません。


ここでの
言葉は短くないといけないのです。

そこで作者斎藤隆介は、この親子再会の場面で、どういう会話を交わさせるか、どういう表現が
一番相応しいかを様々に検討したのではないかと想像できます。

その結果は、長松には
『父ちゃん!』
と叫ばすだけ。
藤五郎は、言葉は発せず笑うだけという
シンプルなものしたのです。

書こうと思えばいかようにも書けたはずですが、敢えて極めて少ない文章にしたのです。

その結果、長松の叫びと藤五郎の笑みは
非常に深い意味を持つことになりました。

長松の『父ちゃん!』という叫びは、父親への言葉にできない
万感の思いがこもったものになりました。

『父ちゃん!』の後には
本来沢山の言葉が続くのです。

それは感謝だったり、誇りだったり、哀しみであったり・・・長松の
言葉にできない言葉が沢山連なるはずなのです。

しかし作者が
『父ちゃん!』
としか叫ばせなかったことにより、この言葉に込められた長松の気持は、
読者に委ねられたのです。

言葉を変えて言うと、敢えて言葉を書かないことで、読者は長松の万感がこもった叫びの中身を
自分で想像できるようになったのです。

読者の想像力は無限ですので、
長松の叫びは無限の意味を持つことになったのです。

藤五郎は
言葉すら発せず、優しく笑うだけです。

作者はここでもこの笑みの意味を一切書きませんでした。

しかし書かないことで、この笑みは
非常に深くなっているのです。

読者は
「笑うことで、長松に自分の気持を分かってもらおうとしているのだ」
「笑うことで、長松の恐怖を和らげているのだ」
「笑うことで、親子でよかったと伝えているのだ」
「笑うことで、長松への温かい気持を伝えているのだ」
などと、様々に
無限に想像することができるのです。

実はこの場面、作者は長松に叫ばせないことも
可能でした。

父親の笑みの描写だけでも物語は
進行できますし、父親の笑みの描写さえなくても長松のベロ出しの場面に行くことはできるのです。

しかし長松に短く
『父ちゃん!』
と叫ばすことにより、長松の言葉にならない様々な気持を
のように読者の胸に突き刺したのです。

この叫びにより、読者は長松が様々な思いを抱えていること、長松の子供っぽいところ、そして
父ちゃんを非常に慕っていることをなどを感じることができるのです。

そしてこの叫びに父親が優しく笑い返すことにより、
長松は救われたのではないか、藤五郎は後悔していないのだろうとか、藤五郎も長松を分かって尊重しているのだろうなどと様々な、肯定的な想像ができるようになっているのです。

もしここで藤五郎が
「鬼の形相」
だったと描写したりすると、作品が非常にネガティブな印象に覆われてしまいますが、笑うことにポジティブで
肯定的な印象が得られているのです。

作者はここでも言葉を明記しないことにより、長松と父親の関係を肯定的に読者に印象づけているのです。

いや、むしろ
書かなかったからこそ、より二人の思いが深く伝わって来ていると管理人は考えています。

このように藤五郎の笑みは、読者に二人の思いを伝える上で極めて深い意味を持っているのです。

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(3)笑顔で村人をも許した

また文章では全く書かれていませんが、ここで藤五郎が笑顔を見せることは、竹矢来の外で処刑を見ている村人(むらびと)にも
大きなインパクトを与えています。

村人はどんな存在か?」でも解説致しましたが、『ベロ出しチョンマ』という物語の中で、村人は藤五郎の出府に大きく関わっています。

藤五郎が出府せざるをえなかったのは、
村人のせいと言っても過言でないほどです。

その村人達の前に、藤五郎はヒゲぼうぼうの白装束の姿で磔台(はりつけだい)にさらされました。

その姿を見た村人はどう思ったでしょうか?

もしここで藤五郎が、長松の
『父ちゃん!』
という叫びに
例えばこう答えたら、どうでしょう?
「長松、オラが死ぬのは村のためだ! 皆と相談して、オラが行くことになったダ! 許してくれ!」

この答え方は、一見無難で分かりやすいように思いますが、
責任を村人に転嫁している部分があるので、村人の心に若干の感情を芽生えさせる可能性があります。

まして、藤五郎が恨みの形相で
例えばこう言ったらどうでしょう?
「オラ達一家が死んじまうのは、ネングを押しつけて来た殿様と、それに我慢できなくてオラを出府させた村の衆のせいだ! 恨むんならそいつらを恨んでくれ!」
こうなるとそれまでの物語の雰囲気は壊れてしまい、非常に陰惨な
後味の悪い話になって行きます。

こう言われると村人は
いい気はしませんし、また長松のベロ出しも嫌々している感が出て、人形として残されて行くという物語の進行も難しくなってしまいます。

村人は読者そのものでもあるので、読者も嫌な気持になってしまいます。

クライマックスですので、この場面の藤五郎の言葉や様子は特に読者の
印象に残ります

まさに
作品の成否を左右する場面といっても過言ではありません。

そして、そんなクライマックスで、作者が選んだのは、藤五郎が長松に
優しく笑いかけるというものでした。

藤五郎も
人間です。命が惜しくないわけはありません。

長松やウメに伝えたい事だって沢山あるはずです。

また自分が処刑される
原因を作った村人にだって言いたいことはあるはずです。

ネング増納という、そもそもの出府の原因を作った藩にだって言いたいことはあるはずです。

ところが藤五郎は
何も言わず、ただ優しく笑ったのです。

そんな藤五郎の優しい笑みを見たとき、村人達の心のには大
きな後悔や反省、哀しみなどが一気に押し寄せたと管理人は考えています。

この笑顔は、沢山の言葉を並べられるよりもずっとずっと
村人の心に響いたのです。

村人達は、名主藤五郎を出府に行かせたことにより、自分達の不満の
溜飲を下げ、わが身も保全され、安堵したはずです。

ところが出府は失敗し、村思いの藤五郎と妻ふじ、そして罪の無い長松とウメまで処刑されるのを
目の前で見て、初めて自分達の罪を自覚し、反省や悔恨や悲しみが押し寄せて来たのです。

しかも自分達のせいで処刑される藤五郎は泣き言を一言も言わず、処刑寸前に
優しく笑ったのです。

笑うことで、藤五郎は村人を
責めるのではなく
「誰が悪いのではない。仕方のないことだったんだ」
村人達を許したのだと管理人は考えています。

もし管理人が実際にこの笑みを見たら、
胸が苦しくなり、他の村人達と同じように思わず竹矢来を揺らしたと思います。

それぐらい、この
笑顔は胸に染みるのです。

村人達の心の奥底にも藤五郎の笑みは
深く深く浸透したのです。

だからこそ、処刑後村人達は藤五郎一家のことを忘れないよう社を作り続けたのです。

そして村人は
読者そのものです。

つまり藤五郎の笑顔は、
村人を通じて読者自身の心にも深く深く広がっているのです。

このように藤五郎の笑顔によって、長松にも、村人や
読者にも、言葉より強く深く藤五郎の意思が伝わっているのです。


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【この章の要約】
長松と藤五郎の関係は明文化されていない。
明文化されていないので、読者は関係を想像せざるをえない。

長松を良い子、藤五郎を人格者として描くことで、二人は言葉も不要なぐらい強固な信頼関係で結ばれていたと読者に想像させている。

長松の希望的観測は、読者に希望と安ど感を与え、物語の暗さを軽減し、出府が成功したように思わせ、長松と藤五郎の強固な信頼関係を伝えている。

藤五郎の処刑前の笑顔は、笑うことで藤五郎と長松の思いが深く伝わり、読者でもある村人の胸にも深く浸透している。


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